【椿―tsubaki―1】





 やはり白粉(おしろい)の匂いはよい。
 美しい女郎達が美を競い合い、柵の中から甘い声で客を誘っている。その傍を冷やかしのふりをして通りすぎるだけで、彼女達の白粉の匂いが鼻をくすぐる。

「旦那、寄っていっておくんなさい」
 立ち止まってその様子を眺めていた俺は、柵の中から一人の女郎に声をかけられた。目元に朱をさした、美しい女だった。
「いや、俺は……」

 飲み屋のツケを払いに行った帰りだった。早く帰らねば家で夕食を作って待つ恋人に悪い。……悪いとは思うのだが……。
「カタいこと言うんじゃないよ。ここを何処だと思ってんだい?花街だよ?女房に悪いと思うくらいなら、はじめからこんなとこにくるんじゃないよ。あ〜、野暮な男だ」
 女郎が顔の前で手をひらひらさせ、煙たそうな仕草をした。その仕草が俺の男としての誇りに障った。
 かつてはこの花街で粋な遊び人として通っていた俺だ。その俺を捕まえて……。
「この俺を捕まえておいて野暮たぁ、どういう了見だ。……後でヒィヒィ言って後悔しても知らねぇからな」


(いくら仕事が休みだからって、まずかったかなぁ)

 翌朝、土間で仁王立ちになって待っていた美貌の恋人の表情を見るなり、昨夜改めて得た、俺の「男としての自信」は見事に打ち砕かれた。
「数馬さん、飲み屋のツケを払いに行ったのではなかったのですか?」
 いつもより数倍低い声が、その怒りの強さを物語っている。
「そのツケを払うのに朝帰りですか?」
「それはだなぁ……」
 彼は長身の俺よりも頭一つ分は背が小さく、黒絹のような長い髪をうなじの辺りで軽く結んでいる。黒曜石のような瞳は本物のそれよりも美しい輝きを放ち、見る者を魅了する。艶のある白い肌はまるで女のそれのようで。鼻筋も通り、簡単に言えば典型的な歌舞伎役者の女形のような美形である。
 そんな俺の自慢の恋人は、形の良い眉を目一杯しかめてこちらを睨んでいた。



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